第18話   伝統の庄内フカセ釣法     平成15年8月11日 


庄内特に鶴岡では、基本的に完全フカセをもって釣法とする。長竿に道糸とハリスと針を付けただけの極々シンプルな仕掛けである。バカを2尋取り、基本的に錘はないのである。

明治大正の頃、より丈夫な糸が発明され以前より細いテグスが使われるようになり釣って面白い軟らかい竿が主流となって来た。技術の革新が竿を変えたのである。とは云っても、今から見ればまだまだ弱いものではあるが、当時の釣り人から見ればまさに革新的であった。長い延べ竿を使って、テグスの弱点を殺し、大型の黒鯛を釣り上げていたのであるから竿の長短を気にすることなく使えるようになって来たのである。一部の釣り人が楽しんでいた釣が一般大衆にも普及出来る下地が出来て来たという事でもあった。以前より竿が短くなって来れば、完全フカセとは云っても、以前より黒鯛を釣るための釣法をマスターするのにあまり時間を必要としない。釣の道具が変われば、当然釣り方にも違いが出てくるのは当たり前だ。

大正時代に大八木釣具店が真鍮パイプで継竿を開発された時もそうだ。自転車、自動車、汽車などの携帯に便利な釣竿の開発は一層大衆化に拍車をかけた。

終戦を迎えた昭和20年頃、継竿にピアノ線で穴を開けて簡素な同軸リールを付けた中通しの竿が開発された。これが又、竿の弱点、弱いテグスを見事克服し魚の取り込みを楽にした。これが庄内の昭和20年後半から30年代にかけての釣ブームに拍車をかけた。誰でもが、ちょっとの練習で大型が釣れる竿の完成である。大きなものを掛けたときに竿の弾力のみならず道糸を出す事で道糸、ハリスの弱点をなくしたのであった。

ただ残念なことに、この時代は竿を作れば売れた時代であったので粗製濫造の感があった事である。3年古以上の竹を使っていたのを癖のつきやすい2年古が主流になったのである。また、竹は生きているからいくら高価な竿を持っていても、竿の扱いを知らなければ、駄目にしてしまう。釣のノウハウやマナー、竿の手入れ等を教えてくれる先輩から後輩へと云う「師匠と弟子の関係」が無くなって来た時代でもあった。

30年代後半から40年代とそれまでの竹竿が扱いに簡単なグラスロッドに代わり、さらに丈夫で軽いカーボンロッドへと代わって行った。カーボンの時代になると中通し釣法に変化が出てきた。バカを一尋と短くして其の分竿を長くしたのである。これはカーボン竿が竹竿より軽くて丈夫になった事にも寄るが、ハリス、道糸がより丈夫になって来た事も関係している。それはオキアミの登場で決定的となる。オキアミはバカを長くして思い切り振ると落ちてしまうのである。50年代前半に庄内にオキアミが入ってきた。オキアミの登場はまさに革新的であった。天候を読み、磯を読み、潮(サラシ)を読み釣り場の選定をしていた釣を一変してしまったのである。正に、玄人の釣から素人の釣にしてしまった瞬間でもあった。それは長年の熟練で魚の居る場所を読んで釣っていた時代から、大体魚が居るであろうと思われる場所を選定し大量の撒餌を打ち、魚を集めて釣る釣に変わったのである。

庄内の釣り人は、そんな庄内中通し釣法を引っ下げて11月末からの1月に釣れる寒クロを大量に釣り始め、庄内磯に黒鯛が少なくなるとやがて男鹿を開拓、又其処が釣れなくなると今度は佐渡島へと渡って釣まくった。

今その庄内釣法も、若い人たちの浮きフカセ釣法に押されて下火になってきている。基本的には、庄内中通し釣法も天候と潮、磯の状態を読み、サラシの中のハケの一点で釣る釣なので、ある程度馴れないと大型の黒鯛を釣り上げるのは難しかったのである。

浮きフカセ釣法では、陸から少し遠いポイントにコマセを打ち広くポイントを探る事が出来きるので、魚の警戒心をなくし釣りやすい。さらに比較的簡単に釣法をマスター出来るという利点がある。しかし、それが逆に魚を磯の足元から遠ざけている原因の一つでもある。

それでも釣る場所によってはまだまだ庄内釣法も実績を残している。まだ昔ながらの釣法を使って釣る人たちも大勢頑張っている。